FC PORT設立10年目にして初の全国大会出場
港町・横浜を拠点に活動するソーシャルフットボールチーム、FC PORT。
統合失調症、双極性障がい(躁鬱)、自閉スペクトラム症、パニック障害などの障がいを抱えた選手たちが集い、月2回仲間同士で汗をかいています。
会話のキャッチボールが困難、気分の波が激しい、狭いコートに長時間いられない、交通機関での移動が困難…と、抱える障がいも実に様々。
そんな彼らが、チームの悲願でもあったソーシャルフットボール関東大会2017(関東予選)を勝ち抜き、準優勝で全国大会の切符をもぎ取ったのは、今からちょうど1年前のことでした。
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それまで関東大会では最高4位止まりだったFC PORTにとって、全国大会など未知の世界。祝勝会の時点では、まだ見ぬ遠い愛媛の地に想いを馳せつつ無邪気にはしゃいでいました。このあと始まる180日間の奮闘など想像だにせず…。
穏やかな船出も…
3月。
関東大会を終えたチームは、半年後の全国大会に向かって動き出していました。関東大会のプレイベントだった「ソーシャルフットボール体験会in川崎」の反響は大きく、練習見学希望者からの問い合わせも増加。それまで少ない日は3〜4人だった練習参加者も、大会直前に加入した選手を加えて10人を超え、締まった空気の中で活気に満ちた練習が続きました。
チームをまとめるのは、5年近くチームを引っ張ってきたササキャプテン。彼を中心に練習メニューを決定するのがFC PORTの基本方針です。感情や主張を表に出す選手が少ない選手たちは、キャプテンに全幅の信頼を寄せ、指示に従っていました。彼の力無くして全国大会出場はありません。ますます彼に対しての信頼は増して行きました。
3月に開催されたデフチャンレンジカップに向けて、FC PORTから3名がソーシャルフットボール関東選抜の選手として選出。チーム初の快挙となりました。
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調子が良い時にはうまく回るもので、4月にはチーム初となるスポンサーも獲得。チームのエンブレムとユニフォームを新調することになりました。
選手のなかでも、就職先が決まったり職業訓練に参加する選手もいて、春の訪れとともに選手たちにも余裕が生まれてきたように見えます。
選手のチーム定着率が低く、同じメンバーで何年も活動を続ける事が難しいのが、ソーシャルフットボールの特徴。しかしFC PORTの場合は、転職を機にチームを離れた選手を除き主力はほぼ残留。全国大会まで半年、このままの上り調子でペースでいけるものと、誰もが思っていました。
帆柱を失った帆船。「ラポール会議」事件
しかし5月、事件が起こります。
「全国大会に向けて、チームの方針を話し合いませんか?」発端を作ったのは他ならぬパラキートでした。
その頃、チームの雑務は実質マネージャ兼選手のジュンコさんが一人で担っていました。ユニフォーム・ビブスの洗濯や備品の運搬、出欠席の管理など、基本的な作業は彼女の担当。それに加えて見学希望者の受け入れや練習場の抽選、練習相手との交渉……。支払いもわざわざ横浜ラポールに足を運ばなければいけません。
関東大会後、さらに雑務が増えそうな雰囲気。選手でもある彼女のキャパシティはいっぱいいっぱいです。彼女が倒れたらチーム活動が止まってしまう状況に、役割を分散したほうがいいのではないか、と考えるのは自然な流れでした。
もう一つ。
FC PORTはプライバシー保護や見学者とのトラブルを避けるため、TwitterやFacebookを活用していません。HPの更新も滞りがちでしたが、スポンサーがついたことでそれも見直さなくてはならず、今のうちに問題を見直そうと提案したのです。
FC PORTは、障がいを持つメンバーだけで運営を行う「当事者運営」のチーム。スタッフは、チームの創設者であり、チームを父親のような眼差しで見守る篠崎氏と、
指導力はもちろんのこと、チームのモチベーターとしても卓越し、選手から絶大な尊敬と信頼を得る佐藤監督。
そしてパラキート。
選手が提案したことに対しアドバイスはしますが、選手よりも先に手を出すことはしません。必要なこととはいえ、その不文律を破る提案でもあることを、この時私は意識していませんでした。
そして5月に行われた「ラポール会議」。
会議は紛糾しました。
些細な作業も選手にとっては大変。ユニフォーム管理を任せた選手がある日突然練習に来なくなるとも限らない、SNSを見て問い合わせが殺到したら誰がその対応をするのか…。
提案はことごとく却下され、契約済みだったスポンサーにまで「誰か助けを借りるのは如何なものか」と否定する意見まで飛び出す始末。出席者のパラキートを見る目がみるみる変わっていきました。
予想外の反応に戸惑うパラキート。前向きになってきたチームの雰囲気に気を良くして、障害特性を深く考えず提案したパラキートの勉強不足でした。
提案に賛同するメンバーも半々くらいだったものの、結局、こじれたまま会議は終了。結果的に余計な提案をした自分も、チームとの関わり方が分からなくなり、しばらくチームの練習から遠ざかりました。
キャプテンの離脱
ところが問題はこれだけでは終わりませんでした。
翌月からササキャプテンが練習に参加しなくなったのです。会議がきっかけだったのか、転職なども重なり、生活面の大きな変化に耐えきれなくなったのか…。ともかくチームの精神的支柱だったササキャプテンは、今日に至るまで練習に顔を見せることはありませんでした。
帆柱を失った船はもはや帆船にあらず。チームとの誤解が解けたパラキートが久しぶりに練習に顔をだすと、普段物静かな選手たちにも、少しずつ動揺が広がっているのが見て取れました。
6月に入り、全国大会まで残り4ヶ月と少し。チームの統率を担い守備の要だったキャプテンを欠きディフェンスは崩壊。練習試合では大敗を喫し、戦術は大きく見直しを迫られました。解決の糸口が見えず、FC PORTは暗礁に乗り上げてしまいます。
チームを変えた「品川会議」
キャプテン離脱から2ヶ月。方針の定まらないままのチームは、残ったメンバーで再びチームの再構築をしなければなりません。デフ(聴覚障害者)チームとの練習試合での大敗で、それまで個人プレイが目立った新メンバーたちも危機感を感じ始め、チームプレイを考えるきっかけになったようでした。
しかし「想いの言語化」が難しいメンバーばかり、なかなか方針がまとまりません。監督は基本の動きの指導はしますが、メンバー同士のコミュニケーションは各個人の自主性に委ねます。暗中模索しながら、ボールを蹴り続ける日々が続きました。
この状況に声を上げたのは、普段遠慮がちなGKジンさんでした。彼の提案は「居酒屋会議」。レギュラーメンバーを集めて、お酒でも飲みながら解決策を話し合おう、というのです。選手同士で呑む習慣のないFC PORTには珍しい提案。しかし誰一人異議を唱えるメンバーはいませんでした。
この居酒屋会議、実は一つの目的がありました。それは関東大会で守備の要だったムーチさんに、守備の立て直しをお願いすること。
関東選抜に選ばれたその技術力、コミュニケーション能力の高さと視野の広さ。なによりチームメイトへの思慮深さは、以前から一目置かれる存在。そしてなんと、彼は監督と元同級生。監督と選手の橋渡し役も期待されていました。
しかし自宅が練習場が遠いため、関東大会以降、彼は一度も練習に参加していなかったのです。
実は何度か、彼にディフェンスリーダーを打診する声はありました。しかしその度に、「自分は家庭もあるし遠い。練習に参加できずチームに迷惑をかけるので、大会ごとの助っ人でいい」と拒み続けてきました。
そんな彼をもう一度チームに引き戻すこと、それが大きな狙いでした。
かくして、品川駅からほど近い個室居酒屋で実現した「品川会議」には、職場がほど近いムーチさんも参加。実にメンバーとは4ヶ月ぶりの顔合わせでした。
最初は消極的だった彼も、皆の説得に押され徐々に目に光が差し始めます。熱のこもった打ち合わせは終電近くまで続き、ムーチさんを中心にした戦術立て直しの方針が決まりました。
こうして、ムーチさんを「三顧の礼」で迎え入れたFC PORT。再び帆柱が建てられました。この日を境に、少しずつチームは進み始めます。
②へ続く
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